ある秋の日に (前編)
【1】 序

柔らかな日差しを身に受けながら、青年は公園の中でたたずんでいた。
背後からの軽やかな足音が耳に届き、彼はゆっくりと振り返る。
「お待たせしちゃってごめんなさい」
声の主は二十歳前後の若い女性だ。ぴょこんと頭を下げたその反動で、長く伸ばした髪の毛がふわりと大きく半円を描いた。
「いや……俺も今来たとこだから」
「うそ! 肩の辺りがちょっと濡れているわ。さっきの通り雨の時、もうここにいたんでしょう?」
悪戯っぽく見上げてくる視線に応えて、彼は──名を秀一と言った──大げさに肩を竦めてみせた。
「全く。折角遅刻を不問にしておこうと思っていたのに、その心遣いが分からないとはなぁ」
「あら、遅れたのは私のせいじゃないわ。用があるって言ってるのに、お祖父(じい)ちゃ……いえ、お祖父さまが呼び止めるんですもの」
その表情を見るに、彼女が本心から祖父の仕業と言っている訳ではないのは明かだ。思わず秀一は吹き出してしまう。
二人でひとしきり笑った後、ふと真顔になった秀一を見て、彼女は顔を曇らせた。
「……で、私に話があるって言ってたけど、何のこと?」
「紫、お前……」
やや躊躇ってから、秀一は先に続けた。
「もう、あの人のことは諦めないか?」
「……!」
二人の間を風が通り過ぎ、水気を含んだ紅葉がはらはらと落ちてくる。
絶句する歳若い従妹から視線を外し、秀一は自嘲の笑みを浮かべた。久々に会って話すにしては、ふさわしくない内容だ。
だが、自分が言うしかない。これは、自分の役目なのだ──



【2】 一族

彼女の名は紫と言う。遥か租庸調の昔より続いてきた一族、墨縄家の跡取り娘である。
現在の家長の愛孫でもあり、近い将来彼女が家長の座に就くだろうことは、周知の事柄であった。

しかし歴史ある一族であればこそ、当然そのことに反対する勢力もある。
もし彼女が結婚すれば、その夫にも一族を率いる権限が生まれる。
親族ならともかく、全く血の繋がりのない他族の男などに一族の命運を任せてなるものか、というのがその大義名分であった。
しかしそれがうわべだけの理由であるということを、秀一はよく理解していた。彼らはただ、一族の覇権を握りたいだけなのだ。
男女差別がない筈の世の中と言えども、性別が違えばおのずと交友関係にも差が現れる。紫が家長の跡を継いだ場合、彼女とあまり関わりのなかった者達の力が弱まる可能性は充分にあった。
彼らはまさに、そのことを恐れているのだ。

紫がいずれ家長を継ぐことは、非公式にではあるが一族の中で既に内定していることである。
反対派の者と言えどもこれを覆すことは容易ではないし、さすがに彼女自身に危害を加えようとする程の悪党はいないので、話は自然、いかに自分達に都合の良い夫を彼女に宛(あて)がうかが問題となっていた。ここ数年の彼らの行動は、そのことに尽きると言っても良いだろう。

だが、彼女は自分で選んでしまった。紛れもない、他族の男性を。
挙式の準備が進む中、反対派の者達は表面上は祝福しながらも、恐らく心穏やかではなかったに違いない。

そんな時──あろうことか祝言の最中に──事件は起こった。
ある敵対している一族が墨縄家の秘宝を狙って襲撃してき、その一大騒動の果てに夫となる筈だった人物が紫の元を去って行ってしまったのだ。
詳しいことは秀一にも分かっていない。「必ず戻ってくる」と約束した──そういう話も聞いているが、真偽の程は定かではない。
問題は、依然として紫が未婚であるということ。この出来事に反対派が色めき立ったのは言うまでもない。恐らくこの状態は長くは続かないだろう、行動を起こすのは今の内だ、と。



【3】 妹

──そして今、自分はここにいる。

秀一は、己の不甲斐なさに嫌悪の念さえ覚えていた。
反対派と噂される者達に肩入れした覚えはない。なのに、白羽の矢は自分に当たってしまった。それは現家長の孫の中で自分が最も紫と親しく、彼女に次いで家長の座に近いせいもあるだろう。
だがそれだけではないことを、秀一は知っていた。
要は、彼らに傀儡(かいらい)に値する人間として認められたのだ。恐らくは、自己主張があまり得意ではないこの性格のために。

「何故? 何故そんなこと言うの?」
紫が声を荒げた。口調の激しさとは裏腹に、今にも泣き出しそうな顔をしている。そして更に言い募った。
「賛成してくれたじゃない。彼は良い人だね、幸せになれよ、って」
はらり、と紅葉が一枚風に舞った。
「貴方がそう言ったのよ、秀一さん!」
怒りのエネルギーは、そのまま彼女の涙の兆しを拭い去っていったようだ。今はただ、毅然として秀一を睨み付けている。
「……分かっているさ」
気おされながらも、秀一は辛うじて口を開く。紫がこうも激しく反応を返したのは、同じことを既に幾度となく言い聞かされてきたからだろう。
神前で誓いを交わすことなく去ってしまった男性……。周囲の人間が、諦めた方が良いと言いたくなるのも無理はない。例えそれが、彼女を傷付けることになろうとも。
「その時の気持ちに偽りはないつもりだ。でも、なぜ俺がこんなこと言わなくちゃいけないのか、それは分かっているんだろう?」

全ては、彼がここに居ないから。

紫はクッと俯(うつむ)いた。
しばしの沈黙の後、秀一は小さく息を吐いて言った。
「ちょっと歩こうか」
「うん」
紫は素直に頷き、二人は並んでゆっくりと歩き始めた。
頭上にはパノラマのような青空が広がっている。爽やかな風を受け、木々がさわさわと音を立てていた。
「ねぇ、覚えてる?」
公園を出て山道と呼ぶ方が相応しいような小道を歩きながら、ふと紫が言った。
「私がまだ小さかった時、秀一さんの後を追ってよくここまで来ていたよね。あの頃の私はまだ世界が狭かったから、こんな所でも家からすごく遠く思えて、ちょっとした冒険をしている気分だったの」
「もちろん、覚えてるよ」
既に小学校に通っていた年上の少年の後を、幼い少女は必死で追っていたのだ。一緒に遊んでもらうために。
「すごく楽しかったの。秀一さんのこと、大好きだったから。今でも好きよ、まるで本当のお兄ちゃんみたいに。でも……」

──信頼しているからこそ、言われたくない事柄もある。

表面上は凛とした態度を装っているが、親しい従兄からの厳しい忠告に紫は少なからず動揺しているようだった。
秀一は微笑を浮かべた。実の兄妹のように思っていたのは、自分も同じだったから。
しかし、だからこそ言わねばならない。誰より大切に思ってきたからこそ、紫の幸福を第一に考えてしまう。もし彼女の前に待ち受けているのが不幸だとしたら、全力で阻止する覚悟が秀一にはあった。



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