風魔の前のおはなし
1. 二人の長と朝稽古

 岐阜県、晩春の飛騨地方。市内の会議所での打ち合わせを終え、墨縄老人は帰途に就こうとしていた。普段は「隠居」の身分として、大半の仕事は一族の主だった者たちに任せている。だが地元名家の家長として、地域の重要な催事にあたっては今なお取りまとめ役を期待されていた。今日も、秋の観光シーズンに市内一帯で行われる大規模なイベントに向け、会議を主導していたところだった。そのイベントでは、墨縄家も、市内の町家を会場に、通常は公開していないからくり細工を多数展示することになっている。

 帰り支度をしながら、墨縄老人は孫娘、紫のことを考えていた。年が明けて春になれば、紫は高校を卒業する。その後は、墨縄家の跡取りとして、家業のもろもろを引き継いでいくことになっている。今回のイベントは、そのための前座となるだろう。紫は幼い頃に両親を亡くし、兄弟姉妹もいない。祖父である自分も、いつどうなるかわからないのだから、跡取りの修業は早いに越したことは無い。だが…。

「ご隠居、本日はご足労ありがとうございました。」

 慇懃無礼な声に、老人は顔を上げた。ひときわ体格のいい、いかつい男が眼前に立っている。その顔には、何か企んでいる、裏のある笑いが浮かんでいた。同じ市内に本拠を構える、有限会社風間組の社長だ。

「こちらこそ、観光事業へのご協力感謝いたします。なにとぞ秋の本番でも、よろしくお願いしますぞ。」

 老人も、何事も無いかのように挨拶を返す。表向きは地元企業の経営者同士。だが、この二人は、水面下で四百年来の戦いを続ける一族の、それぞれの長だった。

 意味ありげな笑いを浮かべて去っていく風間組社長の後ろ姿を見送りながら、老人は再び物思いに耽った。自分亡き後、あの男と対決していかなければならない紫のこと…。紫はあれでなかなか芯の強い、しっかりした子に育ってくれたが、やはり祖父として、心の奥底では不憫なものを感じずにはいられなかった。せめて、彼女を心身両面で支えてくれる、頼りになる人物を側に置いてやれたら。

 老人は家への道を辿りながら考える。いつかはやってくる対決の日に向けて、布石を打っておいてやらなければならない。老人の頭の片隅には、一人の男が浮かんでいた。ここ1年ほど、家に出入りして、からくりについて教えを乞うようになったあの若い男。彼は、墨縄家が、紫が背負っている強大な敵のことを知ってなお、紫の側にいることを承諾し、支えてくれるだろうか…?

 墨縄家を取り巻くように位置する山中、早朝。石川五右ェ門はいつものように、朝稽古に励んでいた。周囲の土地から沈み込むように低くなった場所、小滝のほとりに、竹や縄を用いた仕掛けが至る所組まれている。五右ェ門はその中心に居合の構えを取り、感覚を研ぎ澄ませていた。どの仕掛けがどういう順序で発動するか、前もってはわからない。突如、仕掛けの一つから竹槍が発射された。次の瞬間、カラン、と音がして、真っ二つになった竹槍が地面に落ちる。切り口は水平である。間髪おかず次々と発射される竹槍をすべて切り落とした後、ようやく五右ェ門は顔を上げた。

 低い崖の上に立ち、自分を見つめている人物へ眼差しを向ける。先ほどから、とうにその気配には気づいていたのだが。

「紫殿。」

 苦笑を浮かべながら、五右ェ門は少女の名を呼ぶ。その少女、墨縄紫は、五右ェ門の声にぱっと笑顔を浮かべると、手を振りながら彼のもとへ駆け寄っていく。彼女が側に立つと、いつも身に付けている髪飾りにしのばせられた香のやさしいかおりがふわり、とただよった。墨縄家秘伝の調合法で特別に作られた香だと、以前紫から聞いたことがある。

(人の心を穏やかにする…この香を身に付ける人と同じく。)

 そう、五右ェ門は常々感じている。香と、それを身にまとう人とに和ませられながら、しかし五右ェ門は無理に渋面を作って見せた。

「いつも申し上げていますが、拙者の稽古は人にお見せするようなものではござらぬ。」

 言っても無駄だという自覚はしている。案の定、紫はいたずらっぽく笑って答える。

「だって、五右ェ門さまのお稽古する姿、とてもきれいなんですもの。いつまでだって、見ていたいくらいです。」

 そう言いながら、紫は

(きれいなのはお稽古だけじゃない…。)

 と心のうちで思っていた。五右ェ門が祖父の元へからくりを学びに訪れるようになって1年ほどになる。彼が来訪するたびに紫は、その佇まいの美しさにひきつけられていった。姿勢よく歩む姿、背筋を伸ばして座っている姿、そしてまた、祖父の話を聞いている時の真剣なまなざし…。五右ェ門がなにかするたびに、紫はつい彼の姿をじっと見つめてしまう。

(お心がまっすぐだから、あんなに所作が美しいんだわ…。)

 五右ェ門が朝稽古する山中は、それなりに人里から離れた場所であるのだが、このあたりで育った紫にとってはさほどの距離でもない。それでも、五右ェ門の邪魔にならないよう、稽古が終わる頃を見計らって訪れるようにしている。そうして、ほんの少しの間だけ、彼の見事な居合の腕を目の当たりにする。その姿を見る時、紫はしあわせだった。

「いや、しかし…」

 五右ェ門がなおも言葉を続けようとすると、紫はわざと拗ねた顔を作って見せた。

「そんなことおっしゃると、今度から差し入れ持ってきてあげませんよ?」

 そう言いながら布の包みと水筒を掲げて見せると、五右ェ門は、む、と口をつぐみ、困惑の色を浮かべる。予想通りの反応に、紫は笑みをこぼした。

「さ、五右ェ門さま。一休みなさってください。」

 五右ェ門を促しながら、紫は自分も乾いた地面に腰をおろした。

「お祖父様から教わったからくりを応用して、良い稽古場をつくることができました。」

 手と顔を洗った後、紫が水筒から入れてくれたお茶を受け取りながら五右ェ門は言った。かたじけない、と一礼して熱いお茶を口に含む。紫はおにぎりの包みを開きながら、嬉しそうに笑った。

「祖父も、五右ェ門さまが良いお弟子さんになってくれて、喜んでいます。…それでね、五右ェ門さま。祖父から、折り入ってお願いがあるんです。」

 その朝、紫が話したのは、秋に市内で行われる観光イベントに際し、五右ェ門に墨縄家の『用心棒』を依頼したいということであった。用心棒、という言葉に五右ェ門は一瞬面食らったが、要するに、からくり展示の会場において盗難やいさかい事が起こらぬよう、目を配ってほしいということである。観光客の中には性質の悪い者もいるかもしれない。普段公開していない貴重なからくり細工が破損したり、盗まれたりする事態は避けたい。そう聞いて五右ェ門は快諾した。

「墨縄殿や紫殿には、お世話になっています。拙者でお役に立てるのならば、なんなりと。」

 そう答えながらも、内心ではいささか複雑だった。怪盗ルパンの仲間として、財宝を盗む側である自分が、展示品の用心棒とは!だが、五右ェ門の返事に、純粋に喜びの表情を浮かべている紫を見て、そんな思いは心の奥底へ押しやられた。紫が喜んでくれていること、彼女のために役に立てるということが、五右ェ門には本心から嬉しかった。

 五右ェ門はふと自分の手を見つめる。

「………」

「五右ェ門さま?」

「あ、いや…なんでもござらぬ…」

 不思議そうな顔をしている紫に、笑顔を繕って見せる。五右ェ門は立ち上がって水際へ行き、ふたたび手を洗った。そんなことをしたところで、浄められるわけではないのはわかっていたが…。水に濡れた自分の両手。いや、この手を濡らしているのは水ではない…。彼の目は己の手に、紅い色を見た。
 振り返ると、紫は変わらぬ穏やかな表情で五右ェ門を見つめている。何も知らぬ紫…。

(いつまでも、この人たちのところに出入りするわけにはいかぬ…。)

 飛騨へ来るたび、温かく迎えてくれるこの人たちを、欺き続けるわけにはいかない。彼らを、紫を大切に思えばこそ、自分は離れるべきなのだ。

(用心棒をご恩返しに、お別れするべき時かもしれん…。)

 そう考えた時、これまで感じたことのない感覚が五右ェ門の心の底を吹き抜けていった。だが、彼にはそれが何であるか、その感覚をどう名付けていいのか、わからなかった…。

≫ 2. 襲撃
(2ページ目に続く)
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