「カウントダウン」 第一章 予兆編
(三)忍び寄る影
 カコーン──……

 木々の間からししおどしの音が聞こえる。
 時折吹くそよ風の囁(ささや)きですら存在感を持つほどの静寂の中で、石川五右ェ門は独り座禅を組んでいた。
 この寺に来て、今日で三週間余り。……いや、途中でルパンの呼び出しを食らったので、実質の滞在期間は十五日ほどか。
 端から時間は気にしていない。自身が納得するまで日々修行を繰り返すだけだ。
「にゃー」
 ふと気が付くと、傍らに猫の姿があった。
 寺の住職に可愛がられている、美しい純白の毛並みの雌猫。半野良ゆえ警戒心が強く、容易に他人には懐かないらしいが、なぜか五右ェ門は気に入られたようだ。気が向いた時に、こうして寄って来るのだ。
「野菊、おいで」
 ふっと力を抜いて呼びかけると、猫は軽やかに膝の上に飛び乗り、前肢で五右ェ門の太腿をふみふみ押し始める。五右ェ門がやや足の位置を変えると、納得したかのようにようやく座り込んだ。
 野菊というのは住職が付けた名前である。広い縄張りを持つこの猫は、他にも通っている別宅が何ヶ所かあり、それぞれ違う名で呼ばれているらしい。
「相変わらず、お前は気配が掴みにくいな」
 五右ェ門が耳の裏を撫でてやると、野菊は気持ち良さそうに目を細めた。
 猫は元来隠密行動が得意な生き物であるが、その中でも、この野菊は格段に気配断ちが上手いように感じられる。野生の血の名残だろうか。
 しばらくの間そうして足に温もりを感じていると、不意に野菊が立ち上がり、大きく伸びをした。
 五右ェ門が気にせず背を撫でようとすると、シャーッと威嚇して歩き出す。縄張りの巡回に行く時間なのだろう。振り返りもせず草むらの中に消えてしまった。
「石川殿、野菊はおらんかったかの」
 寺の奥から住職の声が聞こえる。縁側にいた五右ェ門は苦笑しながら中に戻った。
「先ほどまでおりましたが、どうやら邪魔をして嫌われてしまったようです」
「なぁに、心配要らぬよ」
 年老いた住職はカカカと豪快に笑った。
「気まぐれなアヤツのことじゃ。何食わぬ顔でその内また姿を現すじゃろ」


 滞在の目的が修行だとは言っても、タダ飯食らいの身に堕ちるつもりはない。
 この寺に来てからの日課である薪割りをしようと、五右ェ門は寺の裏手に回った。
 束の間一心に斧を振り続ける。今日はこの辺りで充分だろうかと手を止めた時、人の気配を感じて五右ェ門は耳を澄ませた。
 一般人の気配だ。また誰かがお参りに来たのだろう。
「それはそれは……大変だったのぅ」
「えぇ、そうなんですよ。お蔭で俺ら親戚一同も頭を抱えちゃって」
 顔見知りの近所の男が、本尊に参るついでに相談事を持ち込んだらしい。
「それで、その甥っ子は?」
「説得が功をなして、目が覚めたみたいです。本人の口から辞める旨の連絡を入れさせました」
「そりゃ良かった」
「だからあの子はもう大丈夫だと思うんですが……」
「夢を抱いて海を渡った若者を騙すとは、けしからん者どもじゃ」
「騙すと言うか……。契約書を見ると、そういう仕事もあると小さな字で書いてありましたけどね。内定に浮かれて、ろくに確認してなかったようです」
「それにしたってのぅ」
 聞くともなしに聞いていた五右ェ門は、思わず眉をひそめた。
 内容から察するに、この壮年男性の甥は留学を経て海外の会社に就職が決まった、しかしそこは実は一般企業ではなく、武器を持たされて人里離れた場所に建つ砦の警備を命じられるような組織だったらしい。就職先の教育の賜物なのか、甥自身は別の部署に移れるまでの辛抱だと割り切っていたが、急遽決まった休暇で帰国した折りに事情を聞いた家族親戚一同が、驚いて半ば強引に辞職させたようだ。
 騒乱の絶えない国の出身ならともかく、日本のごく普通の若者には荷の重い仕事だろう。
 気にはなるが、無関係かつ遠い海外での事柄に首を突っ込むわけにはいかない。五右ェ門がひっそりその場を離れようとしたところ、男は更に話を続けた。
「──と、名乗っていたらしいですよ」
「恐らく日系人じゃのぅ。その人が、その砦を訪ねて来たと?」
「えぇ。来客自体が珍しいものの、単なる一訪問客だと甥は思っていたそうです。ただ、悪夢から目が覚めてみると、その人のことが気になって仕方がない、と」
「ほぅ。それはなぜに?」
「門番だった甥が控え室まで案内したしたそうですが、甥が翌日の午後帰省する前に周囲の人間に聞いたところ、誰もその人の存在を知らなかったそうです」
「ふ〜む……。確かに気にはなるが、それだけで何かが起こるとは判断できんのぅ……」
「俺もそうは言ったんですけどね。商談のための面会という話だったらしいし、或いは、会社の幹部の愛人だったのかもしれません」
「とにかく、リョウスケ君には、もうその会社とは無関係なのだと言い聞かせるしかなかろうな」
「分かってます。俺らで支えます。話を聞いてくださり、ありがとうございました」
 男が帰って行く音がする。
 五右ェ門はしばしその場で考え込んでいたが、住職がひょいと顔を覗かせたことで我に返った。
「薪割りは終わったかの?」
「あ……はい」
「いつもすまんのぅ。わしゃ今からお勤めの時間じゃから、ゆっくりなされよ」
「……はい」



 その日、夕食の後片付けを終えた後、五右ェ門は境内の中央に立っていた。
 愛刀の鯉口を切り、腰を低く落として抜刀の構えを取る。
 すでに夜の帳(とばり)は下りている。月明かりや灯火のお蔭でさほど不自由さはないものの、五右ェ門はあえて目を閉じ視覚を断った。
 風が吹き抜けたのを感じ、素早く斬鉄剣を振り抜く。手応えはあった。
「いつもながら、お見事」
 住職が拍手をしながら歩いて来る。
「いえ、未だ修行中の身ゆえ」
「そう謙遜なさるな。己に自信を持つことも大切な事じゃて」
「ありがとうございます」
 と、頭を下げかけて、五右ェ門は目を見張った。
 足元に散らばる木の葉の中に、両断されていない物を見付けてしまったのだ。間違いなく、全ての葉に反応して斬った。そのつもりだった。──しかし、実際にはできていなかったのだ。
「おや」
「……お恥ずかしい限りです。やはり拙者は未熟者……」
「今朝の稽古まではそのようなことはなかったのにのぅ」
 住職は思案顔で白い顎髭をなでた。
「剣術のことはワシにはさっぱり分からんが……。夕餉の時から気になっておったんじゃがの、今の石川殿は、修行ではない他のことに気を取られているように見受けられる。何か懸念されていることでもおありかな?」
「懸念、ですか?」
 訊き返した五右ェ門だったが、はたと昼間の一件に思い至った。
 不穏な話を耳にし、気になったのは確かだ。しかし、あくまで他人事である。精神統一に支障が出るほどの一大事だとは自分では思ってもいなかった。
 なぜ、と胸中で自問する。
 同じ名前だからと言って、あの女と同一人物だとは限らない。
 その同じ名の女性が大変な目に遭っているとも限らない。
 ──それでも妙に胸騒ぎがするのはなぜだろう……?


「野菊! どうしたんじゃ」
 住職が上げた叫び声で、五右ェ門はハッと振り返った。
 野菊がトコトコと近寄って来る。その真っ白な毛並みが血で汚れていた。
「これは……猫同士の喧嘩ですか?」
「いや、野菊は同種には負けなしじゃ。この辺りには大型の野生動物もおらんし、恐らくどこかの飼い犬じゃろう。田舎じゃて、放し飼いにしている家が多いもんでのぅ」
「大丈夫でしょうか」
「見たところ、傷も浅いし元気じゃ。明日、朝一で病院に連れて行ってやろう。……野菊は時に、犬や雄猫にちょっかいをかける悪い癖があるんじゃよ。全く、気が強いのも困りものじゃあ」
 野菊が五右ェ門の足にすり寄って来た。昼間威嚇したことなど忘れたようだ。得意気に喉を鳴らしているので、もしかすると相手の犬はもっと深い傷を負ったのかもしれない。
「あぁ、これこれ。待ちなさい。先に身体を拭くから……野菊、待てと言っておろうに」
 伸ばされた手を潜り抜け寺に向かった野菊を、住職が慌てて追って行った。
 その姿を見て、ようやく五右ェ門は悟った。
 野菊は似ているのだ。あの女に。
 野菊の方が何倍も可愛げがあるが、気まぐれで、気が強くて、自身の魅力を理解していて、その魅力を利用する術(すべ)を知っていて、常に他者よりも優位に立とうとする──そんな部分が、どうにもあの女を思い起こさせる。
 そんな野菊が軽度とは言え怪我を負って帰って来たという事実が、何かを暗示しているような気がしてならない。
 五右ェ門の脳裏に、昼間聞いた男の声が蘇った。

 『苗字は忘れたそうですが、その人、フジコと名乗っていたらしいですよ』
五右ェ門がやけに不二子のことを気にしてますが、別に含みはありません(笑)
「斬鉄剣の手入れ中に、刀身に不吉な影を見た」ってのと同じ類の話です。いわゆる第六感的なアレですね。

(2015/9/8)

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